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2009年12月27日日曜日

どうせ死ぬんだから…

 「どうせ死ぬんだから人生楽しまなきゃ」
とか。

 「どうせ死ぬんだから、好きなことを仕様」
とか。

 その背後には当然、死への予期していなかった絶望感、というものがある。
つまり、「死ぬってそんな空虚な事だなんて認識していなかった。ショックだ…」と言った類の感情である。


 死についてどこまで認識を深めるか。または自己了解を得るか。その議論は別として、死についてある程度の意識を持った者にとって、このようなコトバは次のようなものになるだろう。

 「どうせ死ぬんだから…。と言って、別に取り立ててなんてことは無い。普段通りだ。」


 そもそも、死と言うのは到底、生の中では語りえない。
それはちょうど、我々人間が宇宙の外の世界について、十分なコトを知りえないと同じように。
もっともそのように考えれば、僅かながらの想像や、「こうなんじゃないか?」と言った夢見語りや、深い洞察と研究に基づいた莫大な時間から、僅かながらの精度の高い推論を述べる事ができるかもしれないが。
まぁ、つまりその程度しかできないという事だ。

 つまり、別に「どうせ死ぬんだから」と考えたって、どうってことない。だからと言って、なんという事も無い。

2009年12月20日日曜日

プログラミング言語とは

 システム開発において、プログラミング言語とはちょうど、刺身におけるネタのようなもの。
つまり、基本的な造り方だけを身に着けていれば、後はそのネタの特徴を知るだけで十分見事な刺身を造ることができる。

 では良いシステムを作るためには、どんな人材が向いているか?
それは、造り方の長けている人、ネタを良く知る人である。

それではどんな人が、造り方に長け、ネタを良く知るか?
造り方について、日々精進を怠らない人。ネタについて、常に探究心を持つ人。


良いシステムを創る組織は、造り方の工夫をしやすい環境を持ち、そしてネタを豊富に仕入れる環境を持つ。

逐次小さなバグ出しや、プログラミング言語や分野の勉強だけに専念をしている組織は、そういう意味においてまだ高みには遠い。




 具体的には、分野についての言及も連想される。
つまり、ECなのかCMSなのか。あるいは、ウェブなのかイントラなのか。CなのかIphoneなのか。

これはタタキなのか、活造りなのか、薄作りなのか。そんなもの。
それのみに専念をすれば、造り方に長けた者は容易にそれを形にする。

そのような意味においても、真に大切なものは近視眼的には見えてこない。

2009年12月13日日曜日

相性が良い人と悪い人

 毎日、日常のやりとりの中、「どうもこの人とは話が合わないなぁ」とか、「この取引先の風土はどうも、理解できん」とか。あれこれと感じることは生活する上で当然のことなのだろう。

 また、それに対応するように。
初めて会ったのに、「なんだかこの人とは長い付き合いになりそうだ」とか、「(するしないにせよ)今すぐにでも、この会社に転職したい!」と思うような組織、会社にめぐりあることも、しばしばである。


 そんな日もあるさ、と。それが、世の中ってものだよ、とか。少し、このことについてもう一歩踏み出して考えてみたとき、私にはそれが、バンドや交響楽団の演奏会のように思われた。


 つまり、あなたが明日。一人の人間と出会うとき、その人との間に大きな不協和音が生じるか、それとも調和した見事な和音(細かく言えば、別にユニゾンなどでもかまわない。)を奏でるか。

 あるいは、リズムが大幅に合わないという事が無いか。むしろ、老いた父母に歩調を合わせる孝行息子のように、しっかりとした歩幅のごときリズムの一致を感じるか。

 このことが大切になるのだ。


 マーラーの「千人交響楽」のごとく、一人の人間にとって。終生の時に、自らの人生の妙なる響きを完成させるにはただ、腕を組んでいるだけではいけない。
 たくさんの人の助力や、信頼、友情や愛情が、同じ歩調のリズムに合わせ、妙なる和音を奏でる必要があるのだ。


 しかしながら、それが仮に、千人による交響楽とするならば、なかなか一日一日無駄なことはできない。
毎日の出会いの中、快い人柄や高潔な精神、善良な魂に触れるときには是非とも、我が楽団に少しだけでも力を貸してもらいたものだ。

 もちろん、その対価として、彼や彼女の大切な公演がある時には、彼らのリズムに歩調を合わせ、和音をしっかりと理解し、感じ取り。全力でその末席で、自分のパートを担当する。

 まぁ、「対価」とは言ったが、仲間の大事な時には、少しでも彼のためになれるようにと、思ってしまうのは自然なものだろうが。



 あるいは会社や組織もそのようなものかもしれない。
複数の個人により成り立つものと考えれば、それは第一バイオリンや第二バイオリンなどと考えてみれば良いのかもしれない。(クラシックに馴染みが無い人にとっては、パーカッションセクションやギターセクションと考えれば良いだろうか)

 歩調を合わせ、アーティキュレーションを合わせ、トーンを外さず。調和のとれた相手は大事にするべきだし、力を借りたいものだ。



 最後に、公演ということであれば、観衆があるわけだ。
これも同じであって、波長の合わない相手に聞かせてもなかなか残念なことになるだけだ。
ロックファンにはロックを、クラシック。なかでもマーラーファンにはマーラーを。

評価してもらえる相手や、理解してもらえる人も。これは相性である。理解してもらえる人、同じ趣向を持つ人。同じ方向を見ている人。
出会いを大切にしなくてはいけない。

気心の知れた息の合った仲間との最高の演奏を、またこれも同じく、気心の知れた同じ趣向を持つ観客に聞いてもらえる事が、一つの生の醍醐味ではないだろうか。


 さて、翻りあなたのリズムとまったく合わず、不協和音を奏でる人がいたらどうしたら良いのか。
ひとつのチップとしては、あれこれと無益な争いや問題は起こすべきではないだろう。その分の力を、一人でも多くの楽団員を探すことに、向ける方が大変有益なことかもしれない。

 しかしその中でも、「どうしたらリズムを合わせられるか」「どうしたら、和音を一致させられるか」と言う事を考えている相手は、無駄にすべきでは無いかもしれない。
 もっとも都合の悪いのは、そもそもリズムや和音が合わないという事に気が付いていない相手や、リズムや和音を合わせる事について、深く理解をしていない相手かもしれない。

システム・ソフトウェア取引の際の契約

 経済産業省のワーキンググループによる、契約内容やその注意点についての報告。

http://www.meti.go.jp/policy/it_policy/softseibi/index.html#05

パートタイマー均衡待遇推進助成金

 既存のパート・アルバイトを正社員転換する制度を新たに整備したり、そのうえで実際にアルバイト・パートからの正社員転換者が発生した際に支払われる助成金。

財団法人 21世紀職業財団による制度。

仙台市青葉区本町2-3-10 仙台本町ビル7F
tel.022-214-2080






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2009年9月23日水曜日

「聞く力」

そういえば、「措定」についてあれこれと思いを巡らしていた時に、「聞く力」について思うことがあった。

例えば、私は男性であるが、女性と話をする際に、その方がどのようなコトを男性に求めているか…?

かつて寺山修二が、「同じ枕で寝ていても、お互い別の夢を見ている」と語った節があったのを覚えているが、なかなか、言い得て妙であるだろう。

だったら、終わりかと言えばそうでもない。
夢を聞けば良い。

どんな夢であったか。
どんな男性を心に、措定しているか。

聞くことにより、相手の措定をしっかりと知り、心に覚えること。
それは、自らの措定の精度を高める。


そして、その遊戯が面白いのは、すべての措定が保証されていない。つまり検証された確かなことではないということだ。


見えない積み木。しかしながら、それが確かにつみあがっていく感覚。
これが、愛情なのではないだろうか。いや、確かな言葉で表せば「つながり」と言った方が、しっくりくるだろうか。

聞くことがおそろかになっていると、はたと気が付いた時。
反省と、注意が必要だろう。

白洲次郎

今日ドラマをちらちら見て。忘れていた。
メモ。

一番身近なのは、宮城では常に納税額トップの「東北電力」の初代会長。
まぁ、実業界にいて滅多にクロスしない方面なので、何のステレオタイプもなく、偉大だと思うが。

戦国のへそ曲がりを排出した宮城だから、同じへそ曲がりのカミソリは宮城に合うのかもしれない。


しかし、良くクロスするのは妻の白洲正子。
そう冠してよいのか分からないが、美学者青山二郎に師事をし、文芸への造詣を深める。


それを知ったきっかけは、宮城県美術館の長谷川燐二郎作のねこの絵。
実に、我が家のネコにそっくりだ…。

洲之内徹コレクションの一つのようで、このようなものを評価した人柄の周辺を調べていたら出てきたのが、白洲正子と青山二郎。

もう一人小林秀雄の名がしばしば出てくるが、この男についてはあまり良い感じがしないので、なにも記さないが…。


恩師がしばしば、「芸術至上主義者は恐ろしい!」としばしば語っていたが、ここらへんの人々は、あまり踏み込んだ親交を結ぶのは躊躇するだろうが、対岸で見ているとなかなか素晴らしい。


ああ、そうそう。白洲次郎。
実際は、吉田茂を支えた手腕と聡明ながら手のつけられない歌舞伎者ぐらいしか知らない。
しかし、イメージ的にはやはり、芸術至上主義者のようなにおいはする…。

幾分の語弊はあるだろうが…。あくまで、「匂い」の話である。

彼岸の措定。あるいは見えないものを在ると思うこと

たとえば、近年の認知科学では、人間の視覚。つまり、モノの認識は、いわゆる"Ding an sich"ではないという。

つまり、林檎を見た時に、それが赤くて丸い果物であると、すぐに映像として認識されるだけではなく、「これはいつも食べているリンゴである」とか、「博物図鑑で見た、リンゴに似ている」であるとか、ア・ポステリオリな処理を経て、我々はその赤くて丸い果物を「林檎」として、認識するというのだ。


そもそも、林檎とは何なのか?
極めて日常的な認識であれば、甘く、美味しく、そして我々の腹を満たすものである。
そして、そういった果物というグループの中に、そういった赤くて丸い「林檎」というものがあると措定しているのだ。


話は幾分飛躍するが。
「人のあるべき姿」がどうあるべきか。それも同じように、何かに措定されている。

あるいは、キリストとその父たる神を措定するかもしれない。
人類の歴史の中で、いく度も顧みられたように、「神はXXであるからYYであるはずだ」という措定などである。

赤くて丸い果物が林檎であるか。
腐っても林檎と呼べるか。
めちゃくちゃにしたものを、林檎と呼べるのか。
焼いて灰にしたものを、林檎と呼べるのか。

灰になった林檎を、それでも日常的な感覚では「林檎の灰」と呼ぶだろう。
それがたとえ、林檎の姿も、香りもしていなくても…。


何らかの、因果やきっかけを頼りにして、我々はいくつもの足場を措定する。

そもそも、その場に置いて、そのものごとの「確からしさ」は意味をなすのであろうか。
それは、確からしさの真らしさはあるだろう。
目の前で灰になった林檎の灰と、そうではない灰とでは、それが林檎であるかの信ぴょう性は違ってくる。
ただし、それもわたくしの眼が確かであるという。認識に従って。


不確かな認識の精度を語るよりも、彼岸の措定により、どうなるかの方が、楽しみではないだろうか。


良い神は、人を救ってくださる。
それであれば、その措定は、信念にしたい。

林檎の灰が、良い肥料になるのであれば、林檎を焼いて灰にしよう。
それが確かに、林檎ではなくても。


虚数というものがあり、ダークマターというものがある。
その分野については、十分な知識を持っているとは言えないが…。
「見えないもの。知らないもの」を敢えて措定することで、見えてくることもあるのだろう。


何も見えない夜。
措定するものだけが、その一歩を歩みだせる。

そしてまた、その右足を置く大地も、見えない夜ではそこに在るかは確かではない。
その大地も、わたくしが措定している。

2009年4月8日水曜日

馬鹿らしいこと。しかし、現前とした事実であること。

例えば、中年のサラリーマンが、血を吐いて倒れている。
死んでいるのだ。そんなとき、

サスペンスマニアの中年女性は、何か巧妙なトリックにより。そうよ、毒死!怨恨だわ!
と、言う。

同じ同年代の、例えばSE,プログラマーはそれを見て。
可哀そうに、過労で死んだか。怖い怖い。
と、言う。

内科医。とりわけ、アルコール依存症患者を良く見る医師は。
酒か。ありふれた食道静脈瘤破裂。俺もそろそろ控えんとな…。しかし、酒はやめられん。バカ看護婦が。
と、言う。

週刊誌好きのタクシー運転手。のうち、とりわけチンピラ風。
極道に蹴り殺されたんだろう。極道の闇は怖い怖い。ああ、そういえばあの自民党議員の躍進はY組らしい…。
と、言う。


そこで僕は。つまり、しかし僕はこう考える。

クセノスパネスがそういった。
彼に何があったのだろうかな。

しかし、イヌにはイヌの神様。ネコにはネコの神様がいて。それが全能。
世界はマフィアやY口組の幹部に統制されていたり、一人一人の小市民の民主的な手続きに支えられていたり、経済界の重鎮に踊らされていたり。

あるいは霊能者や占い師に踊らされていたり、Zeit Geistに踊らされていたり。
陳腐だけど、大物政治家の密室の力学に踊らされていたり、パンクが世界を改革できると信じているニィちゃんがいたり。

じゃあ、何が本物かといえば、すなわち本物を措定すること自体がおかしいと思いつつ。
しかしながら、「どう思おうと、ひとの勝手じゃない」などという極端な相対主義にうんざりしつつ。

Bellum omnium contra omnes.

1つの注釈に100の注釈がついて。
それで、哲学者ぶる。結局は、根拠の微分積分。終りが見えない。

実はそこに答えがある。
根拠を問うてはいけない。少なくとも、意味がない。

思い込み。妄想。作り話。
これが、モノを言う。

文明は神話の時代から生まれ、実は何一つ成長していない。
いつも、神話の時代。

美しく、力強く。
大義に叶い、みんな倫に在るところに、神話がある。
そこに、安住と真実がある。

2009年4月6日月曜日

南直哉(じきさい) こころの時代

 NHKでやっている「こころの時代」の南直哉氏の回を見た。

曹洞宗禅僧。恐山院代。

 細かい伏線は省くが、一言でいえば「本来無いものを『在る』と『在る』」ということが、如何に問題に満ちているか。さらに進んで言えば、それがどれほど。人の苦しみに繋がっているか。そのことについて、認識の誤謬を一つ一つ、たどりながら語られていた。

ご本人も仰っていたが、
「本当の自分を見つける」
事が、いかに矛盾に誤謬に満ちた問いであるか、が分かりやすい。

これを道元の「仏道をならうというは自己をならうなり…」(『正法眼蔵』)から語られていた。
これによると、自己をならうためには、自己を忘却。すなわち自己の措定を放棄しなければいけないと南は言う。

つまり、自己(本当の自分とでも言うか)は、
・自分の中で「あれか、これか…」と悩んだり
・(自分探しの)旅に出かけたり
・書物やメディアに求めたり
するものではないというわけだ。このようなものに依っては、自己はつかめない。

そしてこれに翻り、そもそも自己というものを「自分の中にある」と措定すること自体が誤りである。
すなわち、自己は私とあなたとの関係においてのみ存在するということ。
つまり、「あれかこれか」と自己の認識に求めるうちは、決して答えが出ない問いであるわけだ。


自分探しではなく、人と対峙するなか。社会に生きるなか、他者に対し自分がどう在れるか(見られる/認識される)が、自己の探究に通じるというわけだ。
他者との関係において、社会の中に置いて、どんな存在で在れるか。これが、自己を持ち、認識することになるわけだ。


余談であるが、あるいはデュナミスあるとかそういったものは、自然と他者によって彫りだされるものなのかもしれない。
威風堂々たるアポロ像が彫りだされるか、畏敬の風神雷神が彫りだされるか。
歪な細工か、あるいは彫りだすうちに砕かれ、形とならず朽ちてしまうか。

年月というものもあるかもしれない。
彫るという作業が、たったの一瞬で終わり、粉々となってしまうのか。
10年。50年という歳月をかけて、デリケートに彫りだされた名作か。

しかし、南直哉の話により浮き出たのは、やはりその半面の後天的な、経験的な側面だろうか。
自己の主体的なチカラの働きも無ではあるまい。

と考えると、あるいは自己の主体的な力のが、このステージまで引き上げるのだろうか。
すなわち自己を放棄することにより、間主観的に自己を要請するステージまで。
このステージに上るまでが、自己の主体的な力の努力なのかもしれない。

2009年3月28日土曜日

詩人 菊地勝彦

 どうも見直していたら最近は小難しいエントリーばかり。たまには別の話題を。
知る人は誰もが評価する人。菊池勝彦について。案外、「教わったことがある!」という人の方が多いかもしれない。氏は教育者でもあったから。

 宮城県による文化人紹介によると、生年1932。

(受賞歴)
1.1961年 第5回現代 新人賞
2.1965年 第4回シナリオ作家協会  新人テレビシナリオコンクール 佳作入選
3.1979年 宮城県芸術選奨

作風は実存的、あるいはシュールレアリスム的である。
私見、一言で言うと「原色で描かれた激情」。そんな印象がある。
しかし、その裏には精緻なプロットと選言を伺わせる繊細さが感じられる。

実は私も教え子の一人だ。
菊地の教え子はしかし、以上のような説明にびっくりするだろう。
随分と訛りの酷い、一見、ただの人柄の良い田舎のおっさん風である。
一度、人ボードレールについて「恐ろしい男だ…」と授業の間繰り返して居たのを、印象的に覚えている。
大抵の者は「何を言ってんだ。このおっさんは」と思っただろうが、ひとのことを言えるほど、温厚な人では無い。

ふとした縁か。菊地は私の乗るバスの停留所の2つ先のバス停から乗っていた。
そこから、高校に向かうのだ。
今でもありありと思いだす。初老の背の高い、しかしながらお世辞にも都会風といえない顔立ち(人懐っこい)の男が、女子高校生の一段に囲まれて、仏頂面でバス停で待っているのだ。
そこはとある女子高の近くにあり、毎朝その光景は見られた。

今思えば、なかなかのお洒落でバーバリーのマフラーに、バーバリーのトレンチコートを着て。

その頃私はそうだ。「俺の文章は天才だ」と思いあがっていたのかもしれない。
それを菊地はいけない傾向だとわかっていたのだろう。
ある日、私は菊地が乗ってきたのを確かめ、菊地に話しかけたのだ。
菊地は人懐っこい顔で、訛りながら、「そこの二人掛けに座ろう」と並んでかけて、話始めた。

彼は私の文があまりのひとりよがりをたしなめたのだ。
それだけではなく、先達らしく、ただの否定だけではなく。寺山修二など著名な人について語り始めた。
ちょうど、私も寺山などを読み始めた頃で、おそらく「お前も知っているであろう、あの著名な人であれ」と示したい気持ちもあり、語ってくれたのであろう。
「寺山とは昔、一緒に仕事(著述)をしたことがある」などと、優しく語ってくださったのを覚えている。

実存の正午。神が玉座に帰還する午後。

現象学的にモノゴトを捉える。
すなわち、モノゴトを、幾千の地平・プラトーの上から眺める。
そこには幾千の展望、風景がある。

唯一の神を亡き者にした後、誰もが「我欲す」と言う。
また、分裂気質に、「我欲す」るは幾千の「我欲す」の中の一つの表出である。

即ち、「わたくし」は、今日はソバにするが、実はうどんも捨てがたく、とはいえどもラーメンも美味しそうである中で、ソバにしてみた訳だ。

幾千の可能態から一つを選びだすことがは極めて楽になった。誰もそれをとがめない。
だが、一つを肯定しつづけることが、どれだけ困難になったことか。
神の玉座の不在は、そぞろなる分裂する精神のさまよえる荒野に。


存在への不安と、自我の解体。
これに抗うために、私たちは神話の時代へ神を招聘に行く。
神代の儀礼のように。
一つの物語を日に百度なぞる。
一つの物語に百の注釈をつける。
一つの物語のために、百の物語を否定する。

一つの自我を、ひとつの理念を実現するために。
原始の残酷な神が求めたように、百の人柱を要求する。

分裂し、とりとめもなく、瓦解する自我の不安と苦悩と較べたら。
比類なき安住を約束する人柱に、どうして誰も拒み続けることができようか。


幾千の地平が在るということが終わりではない。
幾千の地平からひとりの神が現れ。
百の人柱と人身御供の末、玉座に迎えられること、までが大切なことだ。
そして、神が絶対の物語を手に入れるまでの歴史と。
その物語を守り続けることの意義。


実存の後、我々は。
ここから歩みを始める。

2009年3月26日木曜日

理念と肥大する自我(自我肥大)

「自我」はわたくし自身。

そして、あなたにも、彼にも、一つづつある。たいていは。

強い自我は、「わたくし」を実現させるため。他の自我を巻き込む。
ひるがえって、そのような自我はただ一人では存在することができない。
つまり、彼が実現するためには、一人の「わたくし」と、九十九人の「わたくし」を支える別の自我を必要とする訳だ。

それでは弱い自我は。
弱い自我は「わたくし」を実現できない。他の自我に依存しなくては居られない。
不思議なことに、同じように。
そのような自我もただ一人では存在することができない。
したがって、彼は強い「わたくし」の実現を支えて、それと一体化することを欲する。とても自然に。

「わたくし」はどのような偉大な自我の部品になれる、可能態なのか。
実際には、「わたくし」にもどこまでも微分可能な要素がある。

この「わたくし」の要素の集合体が、「わたくし」の自我なのか、あるいはそれぞれが個別体として「わたくし」の自我なのか。

肥大した自我は、理念ではないのか。

理念は物理的な「かたち」を持ち、発現する。
そして、「かたち」は相互的に、「理念」に影響を及ぼす。そして、「理念」は「自我」へ影響する。

2009年3月12日木曜日

枯れた技術の水平思考

なるほど。
横井軍平

山内溥

2009年2月6日金曜日

生存競争と倫理

 世間知らずの若い世代、あるいは世知辛い人々。
本来、人類の繁栄、種の質の向上を考えるとそうだ。生存競争。こういう人たちには厳しくするべきだ。

 すなわち、ずる賢さに躊躇する若者や、「ど根性」などというカッコ悪さを敬遠する、一種の世知辛い人々が不幸になろうと、それはそれで「その不幸から這い上がれなくては、君を我々人類の仲間とは認めない」というぐらいの、無視や冷徹な態度が必要だということだ。

 大抵の雑草は、そこから這い上がる。他方、這い上がれない者もいるだろう。例えば、その不幸が致命的なものであったり、それが彼を立ち上がれないほど打ちのめしてしまう、ということだ。

 さて、ひとつの興味深い問いがある。それは、次のような問いだ。

「我々は他者を、どこまで追い詰め、どこまで虐げることができるだろうか」

一人の人間を、立ち上がれないほど打ちのめす事は、社会、我々にとってはたやすいことではないだろうか。
これは可能である。
明示的に現れなくても、明らかな意図が前面に無くとも、もしかしたら誰かを立ち上がれないほど打ちのめしているかもしれない。このことには注意をしなくてはいけない。

明示的な意図、敵意がある場合は。これは仕方がない。
確かに倫理に反する際は社会として排斥し、そうではない場合は解決すべき人類の問題だ。


一つの解決は、無意識な(非明示的)な冷徹さが可能であるように、無意識な(非明示的)な暖かさが人には可能であるということだ。
つまり、挨拶であるとか、雑談であるとか、特に何かを明示的に意識しているわけではないものの、人を人にとって良い精神状態へ持っていく、ある種のビヘイビア。

2009年1月11日日曜日

ヤマハティーンズミュージックフェスティバル

備忘録:

そういえば、そんなのがあった。10年前ぐらいに出たのか。2000年頃。
確か、参加資格はその名の通り10代で、チャゲ&飛鳥がメジャーデビューする際にきっかけとなった「ポプコン」という大会と同趣旨ということから、かなりギラギラした眼つきの共演者がしのぎを削っていたことが印象的だった。

どうも最近はめっきり名前も聞かなかったので、備忘録として。