毎日、日常のやりとりの中、「どうもこの人とは話が合わないなぁ」とか、「この取引先の風土はどうも、理解できん」とか。あれこれと感じることは生活する上で当然のことなのだろう。
また、それに対応するように。
初めて会ったのに、「なんだかこの人とは長い付き合いになりそうだ」とか、「(するしないにせよ)今すぐにでも、この会社に転職したい!」と思うような組織、会社にめぐりあることも、しばしばである。
そんな日もあるさ、と。それが、世の中ってものだよ、とか。少し、このことについてもう一歩踏み出して考えてみたとき、私にはそれが、バンドや交響楽団の演奏会のように思われた。
つまり、あなたが明日。一人の人間と出会うとき、その人との間に大きな不協和音が生じるか、それとも調和した見事な和音(細かく言えば、別にユニゾンなどでもかまわない。)を奏でるか。
あるいは、リズムが大幅に合わないという事が無いか。むしろ、老いた父母に歩調を合わせる孝行息子のように、しっかりとした歩幅のごときリズムの一致を感じるか。
このことが大切になるのだ。
マーラーの「千人交響楽」のごとく、一人の人間にとって。終生の時に、自らの人生の妙なる響きを完成させるにはただ、腕を組んでいるだけではいけない。
たくさんの人の助力や、信頼、友情や愛情が、同じ歩調のリズムに合わせ、妙なる和音を奏でる必要があるのだ。
しかしながら、それが仮に、千人による交響楽とするならば、なかなか一日一日無駄なことはできない。
毎日の出会いの中、快い人柄や高潔な精神、善良な魂に触れるときには是非とも、我が楽団に少しだけでも力を貸してもらいたものだ。
もちろん、その対価として、彼や彼女の大切な公演がある時には、彼らのリズムに歩調を合わせ、和音をしっかりと理解し、感じ取り。全力でその末席で、自分のパートを担当する。
まぁ、「対価」とは言ったが、仲間の大事な時には、少しでも彼のためになれるようにと、思ってしまうのは自然なものだろうが。
あるいは会社や組織もそのようなものかもしれない。
複数の個人により成り立つものと考えれば、それは第一バイオリンや第二バイオリンなどと考えてみれば良いのかもしれない。(クラシックに馴染みが無い人にとっては、パーカッションセクションやギターセクションと考えれば良いだろうか)
歩調を合わせ、アーティキュレーションを合わせ、トーンを外さず。調和のとれた相手は大事にするべきだし、力を借りたいものだ。
最後に、公演ということであれば、観衆があるわけだ。
これも同じであって、波長の合わない相手に聞かせてもなかなか残念なことになるだけだ。
ロックファンにはロックを、クラシック。なかでもマーラーファンにはマーラーを。
評価してもらえる相手や、理解してもらえる人も。これは相性である。理解してもらえる人、同じ趣向を持つ人。同じ方向を見ている人。
出会いを大切にしなくてはいけない。
気心の知れた息の合った仲間との最高の演奏を、またこれも同じく、気心の知れた同じ趣向を持つ観客に聞いてもらえる事が、一つの生の醍醐味ではないだろうか。
さて、翻りあなたのリズムとまったく合わず、不協和音を奏でる人がいたらどうしたら良いのか。
ひとつのチップとしては、あれこれと無益な争いや問題は起こすべきではないだろう。その分の力を、一人でも多くの楽団員を探すことに、向ける方が大変有益なことかもしれない。
しかしその中でも、「どうしたらリズムを合わせられるか」「どうしたら、和音を一致させられるか」と言う事を考えている相手は、無駄にすべきでは無いかもしれない。
もっとも都合の悪いのは、そもそもリズムや和音が合わないという事に気が付いていない相手や、リズムや和音を合わせる事について、深く理解をしていない相手かもしれない。
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