「どうせ死ぬんだから人生楽しまなきゃ」
とか。
「どうせ死ぬんだから、好きなことを仕様」
とか。
その背後には当然、死への予期していなかった絶望感、というものがある。
つまり、「死ぬってそんな空虚な事だなんて認識していなかった。ショックだ…」と言った類の感情である。
死についてどこまで認識を深めるか。または自己了解を得るか。その議論は別として、死についてある程度の意識を持った者にとって、このようなコトバは次のようなものになるだろう。
「どうせ死ぬんだから…。と言って、別に取り立ててなんてことは無い。普段通りだ。」
そもそも、死と言うのは到底、生の中では語りえない。
それはちょうど、我々人間が宇宙の外の世界について、十分なコトを知りえないと同じように。
もっともそのように考えれば、僅かながらの想像や、「こうなんじゃないか?」と言った夢見語りや、深い洞察と研究に基づいた莫大な時間から、僅かながらの精度の高い推論を述べる事ができるかもしれないが。
まぁ、つまりその程度しかできないという事だ。
つまり、別に「どうせ死ぬんだから」と考えたって、どうってことない。だからと言って、なんという事も無い。
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