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2009年4月6日月曜日

南直哉(じきさい) こころの時代

 NHKでやっている「こころの時代」の南直哉氏の回を見た。

曹洞宗禅僧。恐山院代。

 細かい伏線は省くが、一言でいえば「本来無いものを『在る』と『在る』」ということが、如何に問題に満ちているか。さらに進んで言えば、それがどれほど。人の苦しみに繋がっているか。そのことについて、認識の誤謬を一つ一つ、たどりながら語られていた。

ご本人も仰っていたが、
「本当の自分を見つける」
事が、いかに矛盾に誤謬に満ちた問いであるか、が分かりやすい。

これを道元の「仏道をならうというは自己をならうなり…」(『正法眼蔵』)から語られていた。
これによると、自己をならうためには、自己を忘却。すなわち自己の措定を放棄しなければいけないと南は言う。

つまり、自己(本当の自分とでも言うか)は、
・自分の中で「あれか、これか…」と悩んだり
・(自分探しの)旅に出かけたり
・書物やメディアに求めたり
するものではないというわけだ。このようなものに依っては、自己はつかめない。

そしてこれに翻り、そもそも自己というものを「自分の中にある」と措定すること自体が誤りである。
すなわち、自己は私とあなたとの関係においてのみ存在するということ。
つまり、「あれかこれか」と自己の認識に求めるうちは、決して答えが出ない問いであるわけだ。


自分探しではなく、人と対峙するなか。社会に生きるなか、他者に対し自分がどう在れるか(見られる/認識される)が、自己の探究に通じるというわけだ。
他者との関係において、社会の中に置いて、どんな存在で在れるか。これが、自己を持ち、認識することになるわけだ。


余談であるが、あるいはデュナミスあるとかそういったものは、自然と他者によって彫りだされるものなのかもしれない。
威風堂々たるアポロ像が彫りだされるか、畏敬の風神雷神が彫りだされるか。
歪な細工か、あるいは彫りだすうちに砕かれ、形とならず朽ちてしまうか。

年月というものもあるかもしれない。
彫るという作業が、たったの一瞬で終わり、粉々となってしまうのか。
10年。50年という歳月をかけて、デリケートに彫りだされた名作か。

しかし、南直哉の話により浮き出たのは、やはりその半面の後天的な、経験的な側面だろうか。
自己の主体的なチカラの働きも無ではあるまい。

と考えると、あるいは自己の主体的な力のが、このステージまで引き上げるのだろうか。
すなわち自己を放棄することにより、間主観的に自己を要請するステージまで。
このステージに上るまでが、自己の主体的な力の努力なのかもしれない。

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