現象学的にモノゴトを捉える。
すなわち、モノゴトを、幾千の地平・プラトーの上から眺める。
そこには幾千の展望、風景がある。
唯一の神を亡き者にした後、誰もが「我欲す」と言う。
また、分裂気質に、「我欲す」るは幾千の「我欲す」の中の一つの表出である。
即ち、「わたくし」は、今日はソバにするが、実はうどんも捨てがたく、とはいえどもラーメンも美味しそうである中で、ソバにしてみた訳だ。
幾千の可能態から一つを選びだすことがは極めて楽になった。誰もそれをとがめない。
だが、一つを肯定しつづけることが、どれだけ困難になったことか。
神の玉座の不在は、そぞろなる分裂する精神のさまよえる荒野に。
存在への不安と、自我の解体。
これに抗うために、私たちは神話の時代へ神を招聘に行く。
神代の儀礼のように。
一つの物語を日に百度なぞる。
一つの物語に百の注釈をつける。
一つの物語のために、百の物語を否定する。
一つの自我を、ひとつの理念を実現するために。
原始の残酷な神が求めたように、百の人柱を要求する。
分裂し、とりとめもなく、瓦解する自我の不安と苦悩と較べたら。
比類なき安住を約束する人柱に、どうして誰も拒み続けることができようか。
幾千の地平が在るということが終わりではない。
幾千の地平からひとりの神が現れ。
百の人柱と人身御供の末、玉座に迎えられること、までが大切なことだ。
そして、神が絶対の物語を手に入れるまでの歴史と。
その物語を守り続けることの意義。
実存の後、我々は。
ここから歩みを始める。
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