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2009年9月23日水曜日

彼岸の措定。あるいは見えないものを在ると思うこと

たとえば、近年の認知科学では、人間の視覚。つまり、モノの認識は、いわゆる"Ding an sich"ではないという。

つまり、林檎を見た時に、それが赤くて丸い果物であると、すぐに映像として認識されるだけではなく、「これはいつも食べているリンゴである」とか、「博物図鑑で見た、リンゴに似ている」であるとか、ア・ポステリオリな処理を経て、我々はその赤くて丸い果物を「林檎」として、認識するというのだ。


そもそも、林檎とは何なのか?
極めて日常的な認識であれば、甘く、美味しく、そして我々の腹を満たすものである。
そして、そういった果物というグループの中に、そういった赤くて丸い「林檎」というものがあると措定しているのだ。


話は幾分飛躍するが。
「人のあるべき姿」がどうあるべきか。それも同じように、何かに措定されている。

あるいは、キリストとその父たる神を措定するかもしれない。
人類の歴史の中で、いく度も顧みられたように、「神はXXであるからYYであるはずだ」という措定などである。

赤くて丸い果物が林檎であるか。
腐っても林檎と呼べるか。
めちゃくちゃにしたものを、林檎と呼べるのか。
焼いて灰にしたものを、林檎と呼べるのか。

灰になった林檎を、それでも日常的な感覚では「林檎の灰」と呼ぶだろう。
それがたとえ、林檎の姿も、香りもしていなくても…。


何らかの、因果やきっかけを頼りにして、我々はいくつもの足場を措定する。

そもそも、その場に置いて、そのものごとの「確からしさ」は意味をなすのであろうか。
それは、確からしさの真らしさはあるだろう。
目の前で灰になった林檎の灰と、そうではない灰とでは、それが林檎であるかの信ぴょう性は違ってくる。
ただし、それもわたくしの眼が確かであるという。認識に従って。


不確かな認識の精度を語るよりも、彼岸の措定により、どうなるかの方が、楽しみではないだろうか。


良い神は、人を救ってくださる。
それであれば、その措定は、信念にしたい。

林檎の灰が、良い肥料になるのであれば、林檎を焼いて灰にしよう。
それが確かに、林檎ではなくても。


虚数というものがあり、ダークマターというものがある。
その分野については、十分な知識を持っているとは言えないが…。
「見えないもの。知らないもの」を敢えて措定することで、見えてくることもあるのだろう。


何も見えない夜。
措定するものだけが、その一歩を歩みだせる。

そしてまた、その右足を置く大地も、見えない夜ではそこに在るかは確かではない。
その大地も、わたくしが措定している。

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