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2009年12月13日日曜日

システム・ソフトウェア取引の際の契約

 経済産業省のワーキンググループによる、契約内容やその注意点についての報告。

http://www.meti.go.jp/policy/it_policy/softseibi/index.html#05

パートタイマー均衡待遇推進助成金

 既存のパート・アルバイトを正社員転換する制度を新たに整備したり、そのうえで実際にアルバイト・パートからの正社員転換者が発生した際に支払われる助成金。

財団法人 21世紀職業財団による制度。

仙台市青葉区本町2-3-10 仙台本町ビル7F
tel.022-214-2080






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2009年9月23日水曜日

「聞く力」

そういえば、「措定」についてあれこれと思いを巡らしていた時に、「聞く力」について思うことがあった。

例えば、私は男性であるが、女性と話をする際に、その方がどのようなコトを男性に求めているか…?

かつて寺山修二が、「同じ枕で寝ていても、お互い別の夢を見ている」と語った節があったのを覚えているが、なかなか、言い得て妙であるだろう。

だったら、終わりかと言えばそうでもない。
夢を聞けば良い。

どんな夢であったか。
どんな男性を心に、措定しているか。

聞くことにより、相手の措定をしっかりと知り、心に覚えること。
それは、自らの措定の精度を高める。


そして、その遊戯が面白いのは、すべての措定が保証されていない。つまり検証された確かなことではないということだ。


見えない積み木。しかしながら、それが確かにつみあがっていく感覚。
これが、愛情なのではないだろうか。いや、確かな言葉で表せば「つながり」と言った方が、しっくりくるだろうか。

聞くことがおそろかになっていると、はたと気が付いた時。
反省と、注意が必要だろう。

白洲次郎

今日ドラマをちらちら見て。忘れていた。
メモ。

一番身近なのは、宮城では常に納税額トップの「東北電力」の初代会長。
まぁ、実業界にいて滅多にクロスしない方面なので、何のステレオタイプもなく、偉大だと思うが。

戦国のへそ曲がりを排出した宮城だから、同じへそ曲がりのカミソリは宮城に合うのかもしれない。


しかし、良くクロスするのは妻の白洲正子。
そう冠してよいのか分からないが、美学者青山二郎に師事をし、文芸への造詣を深める。


それを知ったきっかけは、宮城県美術館の長谷川燐二郎作のねこの絵。
実に、我が家のネコにそっくりだ…。

洲之内徹コレクションの一つのようで、このようなものを評価した人柄の周辺を調べていたら出てきたのが、白洲正子と青山二郎。

もう一人小林秀雄の名がしばしば出てくるが、この男についてはあまり良い感じがしないので、なにも記さないが…。


恩師がしばしば、「芸術至上主義者は恐ろしい!」としばしば語っていたが、ここらへんの人々は、あまり踏み込んだ親交を結ぶのは躊躇するだろうが、対岸で見ているとなかなか素晴らしい。


ああ、そうそう。白洲次郎。
実際は、吉田茂を支えた手腕と聡明ながら手のつけられない歌舞伎者ぐらいしか知らない。
しかし、イメージ的にはやはり、芸術至上主義者のようなにおいはする…。

幾分の語弊はあるだろうが…。あくまで、「匂い」の話である。

彼岸の措定。あるいは見えないものを在ると思うこと

たとえば、近年の認知科学では、人間の視覚。つまり、モノの認識は、いわゆる"Ding an sich"ではないという。

つまり、林檎を見た時に、それが赤くて丸い果物であると、すぐに映像として認識されるだけではなく、「これはいつも食べているリンゴである」とか、「博物図鑑で見た、リンゴに似ている」であるとか、ア・ポステリオリな処理を経て、我々はその赤くて丸い果物を「林檎」として、認識するというのだ。


そもそも、林檎とは何なのか?
極めて日常的な認識であれば、甘く、美味しく、そして我々の腹を満たすものである。
そして、そういった果物というグループの中に、そういった赤くて丸い「林檎」というものがあると措定しているのだ。


話は幾分飛躍するが。
「人のあるべき姿」がどうあるべきか。それも同じように、何かに措定されている。

あるいは、キリストとその父たる神を措定するかもしれない。
人類の歴史の中で、いく度も顧みられたように、「神はXXであるからYYであるはずだ」という措定などである。

赤くて丸い果物が林檎であるか。
腐っても林檎と呼べるか。
めちゃくちゃにしたものを、林檎と呼べるのか。
焼いて灰にしたものを、林檎と呼べるのか。

灰になった林檎を、それでも日常的な感覚では「林檎の灰」と呼ぶだろう。
それがたとえ、林檎の姿も、香りもしていなくても…。


何らかの、因果やきっかけを頼りにして、我々はいくつもの足場を措定する。

そもそも、その場に置いて、そのものごとの「確からしさ」は意味をなすのであろうか。
それは、確からしさの真らしさはあるだろう。
目の前で灰になった林檎の灰と、そうではない灰とでは、それが林檎であるかの信ぴょう性は違ってくる。
ただし、それもわたくしの眼が確かであるという。認識に従って。


不確かな認識の精度を語るよりも、彼岸の措定により、どうなるかの方が、楽しみではないだろうか。


良い神は、人を救ってくださる。
それであれば、その措定は、信念にしたい。

林檎の灰が、良い肥料になるのであれば、林檎を焼いて灰にしよう。
それが確かに、林檎ではなくても。


虚数というものがあり、ダークマターというものがある。
その分野については、十分な知識を持っているとは言えないが…。
「見えないもの。知らないもの」を敢えて措定することで、見えてくることもあるのだろう。


何も見えない夜。
措定するものだけが、その一歩を歩みだせる。

そしてまた、その右足を置く大地も、見えない夜ではそこに在るかは確かではない。
その大地も、わたくしが措定している。

2009年4月8日水曜日

馬鹿らしいこと。しかし、現前とした事実であること。

例えば、中年のサラリーマンが、血を吐いて倒れている。
死んでいるのだ。そんなとき、

サスペンスマニアの中年女性は、何か巧妙なトリックにより。そうよ、毒死!怨恨だわ!
と、言う。

同じ同年代の、例えばSE,プログラマーはそれを見て。
可哀そうに、過労で死んだか。怖い怖い。
と、言う。

内科医。とりわけ、アルコール依存症患者を良く見る医師は。
酒か。ありふれた食道静脈瘤破裂。俺もそろそろ控えんとな…。しかし、酒はやめられん。バカ看護婦が。
と、言う。

週刊誌好きのタクシー運転手。のうち、とりわけチンピラ風。
極道に蹴り殺されたんだろう。極道の闇は怖い怖い。ああ、そういえばあの自民党議員の躍進はY組らしい…。
と、言う。


そこで僕は。つまり、しかし僕はこう考える。

クセノスパネスがそういった。
彼に何があったのだろうかな。

しかし、イヌにはイヌの神様。ネコにはネコの神様がいて。それが全能。
世界はマフィアやY口組の幹部に統制されていたり、一人一人の小市民の民主的な手続きに支えられていたり、経済界の重鎮に踊らされていたり。

あるいは霊能者や占い師に踊らされていたり、Zeit Geistに踊らされていたり。
陳腐だけど、大物政治家の密室の力学に踊らされていたり、パンクが世界を改革できると信じているニィちゃんがいたり。

じゃあ、何が本物かといえば、すなわち本物を措定すること自体がおかしいと思いつつ。
しかしながら、「どう思おうと、ひとの勝手じゃない」などという極端な相対主義にうんざりしつつ。

Bellum omnium contra omnes.

1つの注釈に100の注釈がついて。
それで、哲学者ぶる。結局は、根拠の微分積分。終りが見えない。

実はそこに答えがある。
根拠を問うてはいけない。少なくとも、意味がない。

思い込み。妄想。作り話。
これが、モノを言う。

文明は神話の時代から生まれ、実は何一つ成長していない。
いつも、神話の時代。

美しく、力強く。
大義に叶い、みんな倫に在るところに、神話がある。
そこに、安住と真実がある。

2009年4月6日月曜日

南直哉(じきさい) こころの時代

 NHKでやっている「こころの時代」の南直哉氏の回を見た。

曹洞宗禅僧。恐山院代。

 細かい伏線は省くが、一言でいえば「本来無いものを『在る』と『在る』」ということが、如何に問題に満ちているか。さらに進んで言えば、それがどれほど。人の苦しみに繋がっているか。そのことについて、認識の誤謬を一つ一つ、たどりながら語られていた。

ご本人も仰っていたが、
「本当の自分を見つける」
事が、いかに矛盾に誤謬に満ちた問いであるか、が分かりやすい。

これを道元の「仏道をならうというは自己をならうなり…」(『正法眼蔵』)から語られていた。
これによると、自己をならうためには、自己を忘却。すなわち自己の措定を放棄しなければいけないと南は言う。

つまり、自己(本当の自分とでも言うか)は、
・自分の中で「あれか、これか…」と悩んだり
・(自分探しの)旅に出かけたり
・書物やメディアに求めたり
するものではないというわけだ。このようなものに依っては、自己はつかめない。

そしてこれに翻り、そもそも自己というものを「自分の中にある」と措定すること自体が誤りである。
すなわち、自己は私とあなたとの関係においてのみ存在するということ。
つまり、「あれかこれか」と自己の認識に求めるうちは、決して答えが出ない問いであるわけだ。


自分探しではなく、人と対峙するなか。社会に生きるなか、他者に対し自分がどう在れるか(見られる/認識される)が、自己の探究に通じるというわけだ。
他者との関係において、社会の中に置いて、どんな存在で在れるか。これが、自己を持ち、認識することになるわけだ。


余談であるが、あるいはデュナミスあるとかそういったものは、自然と他者によって彫りだされるものなのかもしれない。
威風堂々たるアポロ像が彫りだされるか、畏敬の風神雷神が彫りだされるか。
歪な細工か、あるいは彫りだすうちに砕かれ、形とならず朽ちてしまうか。

年月というものもあるかもしれない。
彫るという作業が、たったの一瞬で終わり、粉々となってしまうのか。
10年。50年という歳月をかけて、デリケートに彫りだされた名作か。

しかし、南直哉の話により浮き出たのは、やはりその半面の後天的な、経験的な側面だろうか。
自己の主体的なチカラの働きも無ではあるまい。

と考えると、あるいは自己の主体的な力のが、このステージまで引き上げるのだろうか。
すなわち自己を放棄することにより、間主観的に自己を要請するステージまで。
このステージに上るまでが、自己の主体的な力の努力なのかもしれない。