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2010年1月2日土曜日

追体験型観光 観光地のナラトロジー(物語)について

 先に観光地の魅力とは「実体験型観光」と「追体験型観光」の二つの分類に属する資源によって左右されると書いたが、次に「追体験型観光」について考察を深めていこうと思う。

 もっともこの世界に時間が流れている以上、歴史の無い場所と言うのはあり得ないので、実際は観光地と呼ばれない辺鄙な場所にも、追体験を可能にする資源は無いとは言えない。

 つまり、平凡な街を一つ一つしらみつぶしに調べていけば、過去に1人ぐらいはドラマチックな生き方をした人を排出していたり、あるいは偉人・有名人が一時期過ごしていた事が分かったり、あるいは自然科学的に特筆すべき出来事が過去にあったりする。
 また、以上のような何か特別なもの、ではなくとも魅力的な追体験しうる観光資源はあるものだ。例えば、大抵の国において、その国の「一昔前の古き良き自然体の風俗」を見たい場合、大抵はその国の主要都市の都心にはその名残を見つける事は至難の業である。
 文化、そして特に主要な発展的な都市が有機体であるように、特に主要都市はその有機体としての本性を発揮し、老廃物。つまり「古き良き自然体の風俗」を排泄し、あるいは作り替え、それをとどめる事をしないからである。

 そのような場合、大抵はその国の中都市や郊外に行けば良いのだ。大抵、有機体として主要都市に対しては劣る新陳代謝により、「古き良き自然体の風俗」の名残をとどめている事が多々ある。
このような風俗や文化の名残。表現するのであれば、文化・習俗のガラパゴスと呼べるかもしれない。取り残されたからこそ、目新しい追体験型観光資源になりうるのである。

 例をあげれば、九州や北海道、本州であれば群馬などに残る炭鉱町。大規模鉱山などである。
もしこれらの地域に、主要都市や大規模都市が生まれれば、特別な例外が無い限り不動産価格の高騰や、都市開発により貴重な文化遺産、風俗は失われてしまったであろう。しかしながら、これら時代から取り残され、誰にも見向きされなくなり、段々とガラパゴスのように取り残されてしまった。
しかしながら、だからこそ特筆すべき追体験的観光資源となったのである。

 したがって、魅力的な追体験型観光資源を考えるとき、必ずしも一般的認知度が高いことや、一定以上の古さを持った歴史が必要であるとは限らないのである。
また、多くの時代遅れの遺物やダサさというのは、一定の熟成期間を経て、魅力的な追体験型観光資源になる可能性を秘めているといえるであろう。

 つまり、現時点で「ここには何もない」と思えても、掘り起こすことで見つかる物語はどの地域にでも一つぐらいはあるのである。

 さて、そう考えた場合、その可観光資源の魅力に優劣が生じるのはなぜだろうか。

 ひとつに挙げられるのが、その資源について深く調べられていない、という事だろう。
例えば「この都市には500年前、偉い領主がいた」と言えば、世界で何千、何万という都市が出てくるだろう。その中でも、都市によって優劣が生じるのは、「その領主が何をした?」とか「その領主によりこの年に何が残った?」「その領主はどんな人だったのか?」など肉付けがされていなことにあるのだ。

 それは物語を作る際も同じなのであろうが、しっかり肉付けされており、その肉付けが魅力的である、というところに観光地としての魅力が生じるのであろう。




 とは言え、ここまでは誰でも語ることができる。
本当に難しいのは、「どのように効率的に肉付けを行えば良いか」の方法論となるであろう。
ただ、一定額の予算を落としても、有志が集まっただけでも、元々魅力的な観光資源があるにせよ、それだけでは解決できない。

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