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2010年1月8日金曜日

歩引き(ぶびき)と下請法

 大したことではないのだが、偶然新規取引先にもちかけられたので備忘として。

(取引先)「ところで支払いについてなのだが、総受注額の5%を引かせていただき、お支払いさせていただくのですが、よろしいでしょうか…?」
( 私 )「(ん…?)はい。まぁ、それぐらいなら差し支えありませんけれども…」
(…後略…)

 別に何とも思わなかったのだが、後で別件で最初から「歩引き5%ありきです」という業者があり、率直な感じ「歪な商習慣だ」という印象。
 調べてみると何でも、古い商習慣で割と行われていたとのこと。
しかも、どうやら下請法では違反となる様子。(実際に公取よりH21も是正勧告と社名公表されている企業は多々ある様子)

 例えば1,000万で5%なら50万。まずまずの額だが、勧告を受ける事を考えるとどうなのだろうかな。
というか、小利に捉われ大利を逃すことになりそうなものだが…。


 実質的には、次のような手法で歩引き的な慣習は今後も無くなりはしないだろうが…。

「来月も同じ仕事を依頼するから、全体的にちょっとシェイプしてよ。見積。頼みますね」
「ウチもこの時期苦しくてね。内々のお願いなんだけど、3%値下げしてもらえる?」
とか…

 まぁ、「そう言われれば何も。ウチとオタクの仲でしょう?」とそれほど悪い気はしないだろうが。慣習として横行すると、それは悪弊と呼ばれても仕方がないのだろう。


下請法抜粋
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● 親事業者,下請事業者の定義(第2条第1項~第8項)
a.物品の製造・修理委託及び政令で定める情報成果物作成・役務提供委託

親事業者:金3億円超

下請事業者:金3億円以下 (個人を含む。)


親事業者:金1千万円超3億円以下

下請事業者:金1千万円以下(個人を含む。)

※ 政令で定める情報成果物作成委託…プログラム
政令で定める役務提供委託…運送,物品の倉庫における保管,情報処理

b.情報成果物作成・役務提供委託(政令で定めるものを除く。)

親事業者:資本金5千万円超

資本金5千万円以下(個人を含む。)




親事業者:金1千万円超5千万円以下

下請事業者:金1千万円以下(個人を含む。)
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まぁ、本当に話題自体はどうでもいいことだけど…。
後学のために。

2010年1月2日土曜日

シグモイド関数(sigmoid function)

 S字曲線により、「ソフトウェア信頼度成長曲線」を書こうとして勉強。ロジスティック関数の一種。

1.名前の由来はΣ(シグマ)から…
 ΣはアルファベットでS。つまり、「Sっぽいカーブになる」からsigm(シグマ) + oid(~の) curve/functionということ。Σがギリシャ語なので、oidもギリシャ語からか。(ex.android)

2.式
(excel風)
σ(x)=1/1+exp(-ax)
※expの-ax乗ということ

 と、ものの情報によるとソフトウェア信頼度成長曲線はゴンペルツ曲線による、と言われるが簡素化してシグモイドでなぞってみました…。
しかし、どうなんでしょうか。本来は「~信頼度成長曲線はロジスティック関数様に示される。そのうち、シンプルに示されるのがシグモイド曲線であり、グラフはこうなる」と言った方が理解しやすい気が…。

ソフトウェア信頼度成長曲線=ゴンペルツ曲線

とするのは、あまりに暗記的な覚え方のような気がしたので…。

文系にはやや、骨の折れる勉強でした…。

追体験型観光 観光地のナラトロジー(物語)について

 先に観光地の魅力とは「実体験型観光」と「追体験型観光」の二つの分類に属する資源によって左右されると書いたが、次に「追体験型観光」について考察を深めていこうと思う。

 もっともこの世界に時間が流れている以上、歴史の無い場所と言うのはあり得ないので、実際は観光地と呼ばれない辺鄙な場所にも、追体験を可能にする資源は無いとは言えない。

 つまり、平凡な街を一つ一つしらみつぶしに調べていけば、過去に1人ぐらいはドラマチックな生き方をした人を排出していたり、あるいは偉人・有名人が一時期過ごしていた事が分かったり、あるいは自然科学的に特筆すべき出来事が過去にあったりする。
 また、以上のような何か特別なもの、ではなくとも魅力的な追体験しうる観光資源はあるものだ。例えば、大抵の国において、その国の「一昔前の古き良き自然体の風俗」を見たい場合、大抵はその国の主要都市の都心にはその名残を見つける事は至難の業である。
 文化、そして特に主要な発展的な都市が有機体であるように、特に主要都市はその有機体としての本性を発揮し、老廃物。つまり「古き良き自然体の風俗」を排泄し、あるいは作り替え、それをとどめる事をしないからである。

 そのような場合、大抵はその国の中都市や郊外に行けば良いのだ。大抵、有機体として主要都市に対しては劣る新陳代謝により、「古き良き自然体の風俗」の名残をとどめている事が多々ある。
このような風俗や文化の名残。表現するのであれば、文化・習俗のガラパゴスと呼べるかもしれない。取り残されたからこそ、目新しい追体験型観光資源になりうるのである。

 例をあげれば、九州や北海道、本州であれば群馬などに残る炭鉱町。大規模鉱山などである。
もしこれらの地域に、主要都市や大規模都市が生まれれば、特別な例外が無い限り不動産価格の高騰や、都市開発により貴重な文化遺産、風俗は失われてしまったであろう。しかしながら、これら時代から取り残され、誰にも見向きされなくなり、段々とガラパゴスのように取り残されてしまった。
しかしながら、だからこそ特筆すべき追体験的観光資源となったのである。

 したがって、魅力的な追体験型観光資源を考えるとき、必ずしも一般的認知度が高いことや、一定以上の古さを持った歴史が必要であるとは限らないのである。
また、多くの時代遅れの遺物やダサさというのは、一定の熟成期間を経て、魅力的な追体験型観光資源になる可能性を秘めているといえるであろう。

 つまり、現時点で「ここには何もない」と思えても、掘り起こすことで見つかる物語はどの地域にでも一つぐらいはあるのである。

 さて、そう考えた場合、その可観光資源の魅力に優劣が生じるのはなぜだろうか。

 ひとつに挙げられるのが、その資源について深く調べられていない、という事だろう。
例えば「この都市には500年前、偉い領主がいた」と言えば、世界で何千、何万という都市が出てくるだろう。その中でも、都市によって優劣が生じるのは、「その領主が何をした?」とか「その領主によりこの年に何が残った?」「その領主はどんな人だったのか?」など肉付けがされていなことにあるのだ。

 それは物語を作る際も同じなのであろうが、しっかり肉付けされており、その肉付けが魅力的である、というところに観光地としての魅力が生じるのであろう。




 とは言え、ここまでは誰でも語ることができる。
本当に難しいのは、「どのように効率的に肉付けを行えば良いか」の方法論となるであろう。
ただ、一定額の予算を落としても、有志が集まっただけでも、元々魅力的な観光資源があるにせよ、それだけでは解決できない。

観光のナラトロジー あるいは物語

 「魅力的な観光地」を考えてみるときに、何がその観光地を魅力的たらしめているか、という議論に焦点があてられる。

 例えば、具体的な例を考えてみると良いかもしれない。
仮に、京都と考えた場合。日本人にとってまずは「歴史の都」という印象を持つだろう。
しかし不思議な事に、「どんな歴史」と問うとこの回答については百人百様。定かなものではないだろう。
人によっては「幕末の歴史を感じられる都」となるかもしれないし、またあるいは「悠久の皇室の歴史の感じられる都」かもしれない。
つまり、人が観光地について魅力を感じる場合、何らかの物語を持ってその魅力についての印象を形作っているのである。

 一方、この物語については必ずしも過去の物語だけでは無く、未来の物語について語られる印象もある。
それはつまり「自分が(もし)そこに行ったら、このような事ができる。見れる。食べられる。」という自分の未来の物語についてである。

 この物語が生き生きとした印象を持ち始めるのは、その観光地の直接的な魅力からである。直接的な魅力とはすなわち、「あれを食べたい」「あれを見たい」「あそこに泊まりたい」「あの人に会いたい」「あれを感じたい」といった魅力である。
これは未来。つまり、「もしあそこに観光に行ったら」という形式で語られる。

 換言すれば、前者のように過去の物語を重視する観光を、「追体験型観光」。後者のように未来の物語を重視する観光を「実体験型観光」と呼ぶことができるだろう。

 すぐれた魅力を持つ観光地とは、このいずれかに属する資源が豊富であるか、あるいは双方に属する資源が豊富である観光地と言える。

2009年12月27日日曜日

どうせ死ぬんだから…

 「どうせ死ぬんだから人生楽しまなきゃ」
とか。

 「どうせ死ぬんだから、好きなことを仕様」
とか。

 その背後には当然、死への予期していなかった絶望感、というものがある。
つまり、「死ぬってそんな空虚な事だなんて認識していなかった。ショックだ…」と言った類の感情である。


 死についてどこまで認識を深めるか。または自己了解を得るか。その議論は別として、死についてある程度の意識を持った者にとって、このようなコトバは次のようなものになるだろう。

 「どうせ死ぬんだから…。と言って、別に取り立ててなんてことは無い。普段通りだ。」


 そもそも、死と言うのは到底、生の中では語りえない。
それはちょうど、我々人間が宇宙の外の世界について、十分なコトを知りえないと同じように。
もっともそのように考えれば、僅かながらの想像や、「こうなんじゃないか?」と言った夢見語りや、深い洞察と研究に基づいた莫大な時間から、僅かながらの精度の高い推論を述べる事ができるかもしれないが。
まぁ、つまりその程度しかできないという事だ。

 つまり、別に「どうせ死ぬんだから」と考えたって、どうってことない。だからと言って、なんという事も無い。

2009年12月20日日曜日

プログラミング言語とは

 システム開発において、プログラミング言語とはちょうど、刺身におけるネタのようなもの。
つまり、基本的な造り方だけを身に着けていれば、後はそのネタの特徴を知るだけで十分見事な刺身を造ることができる。

 では良いシステムを作るためには、どんな人材が向いているか?
それは、造り方の長けている人、ネタを良く知る人である。

それではどんな人が、造り方に長け、ネタを良く知るか?
造り方について、日々精進を怠らない人。ネタについて、常に探究心を持つ人。


良いシステムを創る組織は、造り方の工夫をしやすい環境を持ち、そしてネタを豊富に仕入れる環境を持つ。

逐次小さなバグ出しや、プログラミング言語や分野の勉強だけに専念をしている組織は、そういう意味においてまだ高みには遠い。




 具体的には、分野についての言及も連想される。
つまり、ECなのかCMSなのか。あるいは、ウェブなのかイントラなのか。CなのかIphoneなのか。

これはタタキなのか、活造りなのか、薄作りなのか。そんなもの。
それのみに専念をすれば、造り方に長けた者は容易にそれを形にする。

そのような意味においても、真に大切なものは近視眼的には見えてこない。

2009年12月13日日曜日

相性が良い人と悪い人

 毎日、日常のやりとりの中、「どうもこの人とは話が合わないなぁ」とか、「この取引先の風土はどうも、理解できん」とか。あれこれと感じることは生活する上で当然のことなのだろう。

 また、それに対応するように。
初めて会ったのに、「なんだかこの人とは長い付き合いになりそうだ」とか、「(するしないにせよ)今すぐにでも、この会社に転職したい!」と思うような組織、会社にめぐりあることも、しばしばである。


 そんな日もあるさ、と。それが、世の中ってものだよ、とか。少し、このことについてもう一歩踏み出して考えてみたとき、私にはそれが、バンドや交響楽団の演奏会のように思われた。


 つまり、あなたが明日。一人の人間と出会うとき、その人との間に大きな不協和音が生じるか、それとも調和した見事な和音(細かく言えば、別にユニゾンなどでもかまわない。)を奏でるか。

 あるいは、リズムが大幅に合わないという事が無いか。むしろ、老いた父母に歩調を合わせる孝行息子のように、しっかりとした歩幅のごときリズムの一致を感じるか。

 このことが大切になるのだ。


 マーラーの「千人交響楽」のごとく、一人の人間にとって。終生の時に、自らの人生の妙なる響きを完成させるにはただ、腕を組んでいるだけではいけない。
 たくさんの人の助力や、信頼、友情や愛情が、同じ歩調のリズムに合わせ、妙なる和音を奏でる必要があるのだ。


 しかしながら、それが仮に、千人による交響楽とするならば、なかなか一日一日無駄なことはできない。
毎日の出会いの中、快い人柄や高潔な精神、善良な魂に触れるときには是非とも、我が楽団に少しだけでも力を貸してもらいたものだ。

 もちろん、その対価として、彼や彼女の大切な公演がある時には、彼らのリズムに歩調を合わせ、和音をしっかりと理解し、感じ取り。全力でその末席で、自分のパートを担当する。

 まぁ、「対価」とは言ったが、仲間の大事な時には、少しでも彼のためになれるようにと、思ってしまうのは自然なものだろうが。



 あるいは会社や組織もそのようなものかもしれない。
複数の個人により成り立つものと考えれば、それは第一バイオリンや第二バイオリンなどと考えてみれば良いのかもしれない。(クラシックに馴染みが無い人にとっては、パーカッションセクションやギターセクションと考えれば良いだろうか)

 歩調を合わせ、アーティキュレーションを合わせ、トーンを外さず。調和のとれた相手は大事にするべきだし、力を借りたいものだ。



 最後に、公演ということであれば、観衆があるわけだ。
これも同じであって、波長の合わない相手に聞かせてもなかなか残念なことになるだけだ。
ロックファンにはロックを、クラシック。なかでもマーラーファンにはマーラーを。

評価してもらえる相手や、理解してもらえる人も。これは相性である。理解してもらえる人、同じ趣向を持つ人。同じ方向を見ている人。
出会いを大切にしなくてはいけない。

気心の知れた息の合った仲間との最高の演奏を、またこれも同じく、気心の知れた同じ趣向を持つ観客に聞いてもらえる事が、一つの生の醍醐味ではないだろうか。


 さて、翻りあなたのリズムとまったく合わず、不協和音を奏でる人がいたらどうしたら良いのか。
ひとつのチップとしては、あれこれと無益な争いや問題は起こすべきではないだろう。その分の力を、一人でも多くの楽団員を探すことに、向ける方が大変有益なことかもしれない。

 しかしその中でも、「どうしたらリズムを合わせられるか」「どうしたら、和音を一致させられるか」と言う事を考えている相手は、無駄にすべきでは無いかもしれない。
 もっとも都合の悪いのは、そもそもリズムや和音が合わないという事に気が付いていない相手や、リズムや和音を合わせる事について、深く理解をしていない相手かもしれない。