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2009年9月23日水曜日

「聞く力」

そういえば、「措定」についてあれこれと思いを巡らしていた時に、「聞く力」について思うことがあった。

例えば、私は男性であるが、女性と話をする際に、その方がどのようなコトを男性に求めているか…?

かつて寺山修二が、「同じ枕で寝ていても、お互い別の夢を見ている」と語った節があったのを覚えているが、なかなか、言い得て妙であるだろう。

だったら、終わりかと言えばそうでもない。
夢を聞けば良い。

どんな夢であったか。
どんな男性を心に、措定しているか。

聞くことにより、相手の措定をしっかりと知り、心に覚えること。
それは、自らの措定の精度を高める。


そして、その遊戯が面白いのは、すべての措定が保証されていない。つまり検証された確かなことではないということだ。


見えない積み木。しかしながら、それが確かにつみあがっていく感覚。
これが、愛情なのではないだろうか。いや、確かな言葉で表せば「つながり」と言った方が、しっくりくるだろうか。

聞くことがおそろかになっていると、はたと気が付いた時。
反省と、注意が必要だろう。

白洲次郎

今日ドラマをちらちら見て。忘れていた。
メモ。

一番身近なのは、宮城では常に納税額トップの「東北電力」の初代会長。
まぁ、実業界にいて滅多にクロスしない方面なので、何のステレオタイプもなく、偉大だと思うが。

戦国のへそ曲がりを排出した宮城だから、同じへそ曲がりのカミソリは宮城に合うのかもしれない。


しかし、良くクロスするのは妻の白洲正子。
そう冠してよいのか分からないが、美学者青山二郎に師事をし、文芸への造詣を深める。


それを知ったきっかけは、宮城県美術館の長谷川燐二郎作のねこの絵。
実に、我が家のネコにそっくりだ…。

洲之内徹コレクションの一つのようで、このようなものを評価した人柄の周辺を調べていたら出てきたのが、白洲正子と青山二郎。

もう一人小林秀雄の名がしばしば出てくるが、この男についてはあまり良い感じがしないので、なにも記さないが…。


恩師がしばしば、「芸術至上主義者は恐ろしい!」としばしば語っていたが、ここらへんの人々は、あまり踏み込んだ親交を結ぶのは躊躇するだろうが、対岸で見ているとなかなか素晴らしい。


ああ、そうそう。白洲次郎。
実際は、吉田茂を支えた手腕と聡明ながら手のつけられない歌舞伎者ぐらいしか知らない。
しかし、イメージ的にはやはり、芸術至上主義者のようなにおいはする…。

幾分の語弊はあるだろうが…。あくまで、「匂い」の話である。

彼岸の措定。あるいは見えないものを在ると思うこと

たとえば、近年の認知科学では、人間の視覚。つまり、モノの認識は、いわゆる"Ding an sich"ではないという。

つまり、林檎を見た時に、それが赤くて丸い果物であると、すぐに映像として認識されるだけではなく、「これはいつも食べているリンゴである」とか、「博物図鑑で見た、リンゴに似ている」であるとか、ア・ポステリオリな処理を経て、我々はその赤くて丸い果物を「林檎」として、認識するというのだ。


そもそも、林檎とは何なのか?
極めて日常的な認識であれば、甘く、美味しく、そして我々の腹を満たすものである。
そして、そういった果物というグループの中に、そういった赤くて丸い「林檎」というものがあると措定しているのだ。


話は幾分飛躍するが。
「人のあるべき姿」がどうあるべきか。それも同じように、何かに措定されている。

あるいは、キリストとその父たる神を措定するかもしれない。
人類の歴史の中で、いく度も顧みられたように、「神はXXであるからYYであるはずだ」という措定などである。

赤くて丸い果物が林檎であるか。
腐っても林檎と呼べるか。
めちゃくちゃにしたものを、林檎と呼べるのか。
焼いて灰にしたものを、林檎と呼べるのか。

灰になった林檎を、それでも日常的な感覚では「林檎の灰」と呼ぶだろう。
それがたとえ、林檎の姿も、香りもしていなくても…。


何らかの、因果やきっかけを頼りにして、我々はいくつもの足場を措定する。

そもそも、その場に置いて、そのものごとの「確からしさ」は意味をなすのであろうか。
それは、確からしさの真らしさはあるだろう。
目の前で灰になった林檎の灰と、そうではない灰とでは、それが林檎であるかの信ぴょう性は違ってくる。
ただし、それもわたくしの眼が確かであるという。認識に従って。


不確かな認識の精度を語るよりも、彼岸の措定により、どうなるかの方が、楽しみではないだろうか。


良い神は、人を救ってくださる。
それであれば、その措定は、信念にしたい。

林檎の灰が、良い肥料になるのであれば、林檎を焼いて灰にしよう。
それが確かに、林檎ではなくても。


虚数というものがあり、ダークマターというものがある。
その分野については、十分な知識を持っているとは言えないが…。
「見えないもの。知らないもの」を敢えて措定することで、見えてくることもあるのだろう。


何も見えない夜。
措定するものだけが、その一歩を歩みだせる。

そしてまた、その右足を置く大地も、見えない夜ではそこに在るかは確かではない。
その大地も、わたくしが措定している。