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2009年3月28日土曜日

詩人 菊地勝彦

 どうも見直していたら最近は小難しいエントリーばかり。たまには別の話題を。
知る人は誰もが評価する人。菊池勝彦について。案外、「教わったことがある!」という人の方が多いかもしれない。氏は教育者でもあったから。

 宮城県による文化人紹介によると、生年1932。

(受賞歴)
1.1961年 第5回現代 新人賞
2.1965年 第4回シナリオ作家協会  新人テレビシナリオコンクール 佳作入選
3.1979年 宮城県芸術選奨

作風は実存的、あるいはシュールレアリスム的である。
私見、一言で言うと「原色で描かれた激情」。そんな印象がある。
しかし、その裏には精緻なプロットと選言を伺わせる繊細さが感じられる。

実は私も教え子の一人だ。
菊地の教え子はしかし、以上のような説明にびっくりするだろう。
随分と訛りの酷い、一見、ただの人柄の良い田舎のおっさん風である。
一度、人ボードレールについて「恐ろしい男だ…」と授業の間繰り返して居たのを、印象的に覚えている。
大抵の者は「何を言ってんだ。このおっさんは」と思っただろうが、ひとのことを言えるほど、温厚な人では無い。

ふとした縁か。菊地は私の乗るバスの停留所の2つ先のバス停から乗っていた。
そこから、高校に向かうのだ。
今でもありありと思いだす。初老の背の高い、しかしながらお世辞にも都会風といえない顔立ち(人懐っこい)の男が、女子高校生の一段に囲まれて、仏頂面でバス停で待っているのだ。
そこはとある女子高の近くにあり、毎朝その光景は見られた。

今思えば、なかなかのお洒落でバーバリーのマフラーに、バーバリーのトレンチコートを着て。

その頃私はそうだ。「俺の文章は天才だ」と思いあがっていたのかもしれない。
それを菊地はいけない傾向だとわかっていたのだろう。
ある日、私は菊地が乗ってきたのを確かめ、菊地に話しかけたのだ。
菊地は人懐っこい顔で、訛りながら、「そこの二人掛けに座ろう」と並んでかけて、話始めた。

彼は私の文があまりのひとりよがりをたしなめたのだ。
それだけではなく、先達らしく、ただの否定だけではなく。寺山修二など著名な人について語り始めた。
ちょうど、私も寺山などを読み始めた頃で、おそらく「お前も知っているであろう、あの著名な人であれ」と示したい気持ちもあり、語ってくれたのであろう。
「寺山とは昔、一緒に仕事(著述)をしたことがある」などと、優しく語ってくださったのを覚えている。

実存の正午。神が玉座に帰還する午後。

現象学的にモノゴトを捉える。
すなわち、モノゴトを、幾千の地平・プラトーの上から眺める。
そこには幾千の展望、風景がある。

唯一の神を亡き者にした後、誰もが「我欲す」と言う。
また、分裂気質に、「我欲す」るは幾千の「我欲す」の中の一つの表出である。

即ち、「わたくし」は、今日はソバにするが、実はうどんも捨てがたく、とはいえどもラーメンも美味しそうである中で、ソバにしてみた訳だ。

幾千の可能態から一つを選びだすことがは極めて楽になった。誰もそれをとがめない。
だが、一つを肯定しつづけることが、どれだけ困難になったことか。
神の玉座の不在は、そぞろなる分裂する精神のさまよえる荒野に。


存在への不安と、自我の解体。
これに抗うために、私たちは神話の時代へ神を招聘に行く。
神代の儀礼のように。
一つの物語を日に百度なぞる。
一つの物語に百の注釈をつける。
一つの物語のために、百の物語を否定する。

一つの自我を、ひとつの理念を実現するために。
原始の残酷な神が求めたように、百の人柱を要求する。

分裂し、とりとめもなく、瓦解する自我の不安と苦悩と較べたら。
比類なき安住を約束する人柱に、どうして誰も拒み続けることができようか。


幾千の地平が在るということが終わりではない。
幾千の地平からひとりの神が現れ。
百の人柱と人身御供の末、玉座に迎えられること、までが大切なことだ。
そして、神が絶対の物語を手に入れるまでの歴史と。
その物語を守り続けることの意義。


実存の後、我々は。
ここから歩みを始める。

2009年3月26日木曜日

理念と肥大する自我(自我肥大)

「自我」はわたくし自身。

そして、あなたにも、彼にも、一つづつある。たいていは。

強い自我は、「わたくし」を実現させるため。他の自我を巻き込む。
ひるがえって、そのような自我はただ一人では存在することができない。
つまり、彼が実現するためには、一人の「わたくし」と、九十九人の「わたくし」を支える別の自我を必要とする訳だ。

それでは弱い自我は。
弱い自我は「わたくし」を実現できない。他の自我に依存しなくては居られない。
不思議なことに、同じように。
そのような自我もただ一人では存在することができない。
したがって、彼は強い「わたくし」の実現を支えて、それと一体化することを欲する。とても自然に。

「わたくし」はどのような偉大な自我の部品になれる、可能態なのか。
実際には、「わたくし」にもどこまでも微分可能な要素がある。

この「わたくし」の要素の集合体が、「わたくし」の自我なのか、あるいはそれぞれが個別体として「わたくし」の自我なのか。

肥大した自我は、理念ではないのか。

理念は物理的な「かたち」を持ち、発現する。
そして、「かたち」は相互的に、「理念」に影響を及ぼす。そして、「理念」は「自我」へ影響する。

2009年3月12日木曜日

枯れた技術の水平思考

なるほど。
横井軍平

山内溥