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2009年4月8日水曜日

馬鹿らしいこと。しかし、現前とした事実であること。

例えば、中年のサラリーマンが、血を吐いて倒れている。
死んでいるのだ。そんなとき、

サスペンスマニアの中年女性は、何か巧妙なトリックにより。そうよ、毒死!怨恨だわ!
と、言う。

同じ同年代の、例えばSE,プログラマーはそれを見て。
可哀そうに、過労で死んだか。怖い怖い。
と、言う。

内科医。とりわけ、アルコール依存症患者を良く見る医師は。
酒か。ありふれた食道静脈瘤破裂。俺もそろそろ控えんとな…。しかし、酒はやめられん。バカ看護婦が。
と、言う。

週刊誌好きのタクシー運転手。のうち、とりわけチンピラ風。
極道に蹴り殺されたんだろう。極道の闇は怖い怖い。ああ、そういえばあの自民党議員の躍進はY組らしい…。
と、言う。


そこで僕は。つまり、しかし僕はこう考える。

クセノスパネスがそういった。
彼に何があったのだろうかな。

しかし、イヌにはイヌの神様。ネコにはネコの神様がいて。それが全能。
世界はマフィアやY口組の幹部に統制されていたり、一人一人の小市民の民主的な手続きに支えられていたり、経済界の重鎮に踊らされていたり。

あるいは霊能者や占い師に踊らされていたり、Zeit Geistに踊らされていたり。
陳腐だけど、大物政治家の密室の力学に踊らされていたり、パンクが世界を改革できると信じているニィちゃんがいたり。

じゃあ、何が本物かといえば、すなわち本物を措定すること自体がおかしいと思いつつ。
しかしながら、「どう思おうと、ひとの勝手じゃない」などという極端な相対主義にうんざりしつつ。

Bellum omnium contra omnes.

1つの注釈に100の注釈がついて。
それで、哲学者ぶる。結局は、根拠の微分積分。終りが見えない。

実はそこに答えがある。
根拠を問うてはいけない。少なくとも、意味がない。

思い込み。妄想。作り話。
これが、モノを言う。

文明は神話の時代から生まれ、実は何一つ成長していない。
いつも、神話の時代。

美しく、力強く。
大義に叶い、みんな倫に在るところに、神話がある。
そこに、安住と真実がある。

2009年4月6日月曜日

南直哉(じきさい) こころの時代

 NHKでやっている「こころの時代」の南直哉氏の回を見た。

曹洞宗禅僧。恐山院代。

 細かい伏線は省くが、一言でいえば「本来無いものを『在る』と『在る』」ということが、如何に問題に満ちているか。さらに進んで言えば、それがどれほど。人の苦しみに繋がっているか。そのことについて、認識の誤謬を一つ一つ、たどりながら語られていた。

ご本人も仰っていたが、
「本当の自分を見つける」
事が、いかに矛盾に誤謬に満ちた問いであるか、が分かりやすい。

これを道元の「仏道をならうというは自己をならうなり…」(『正法眼蔵』)から語られていた。
これによると、自己をならうためには、自己を忘却。すなわち自己の措定を放棄しなければいけないと南は言う。

つまり、自己(本当の自分とでも言うか)は、
・自分の中で「あれか、これか…」と悩んだり
・(自分探しの)旅に出かけたり
・書物やメディアに求めたり
するものではないというわけだ。このようなものに依っては、自己はつかめない。

そしてこれに翻り、そもそも自己というものを「自分の中にある」と措定すること自体が誤りである。
すなわち、自己は私とあなたとの関係においてのみ存在するということ。
つまり、「あれかこれか」と自己の認識に求めるうちは、決して答えが出ない問いであるわけだ。


自分探しではなく、人と対峙するなか。社会に生きるなか、他者に対し自分がどう在れるか(見られる/認識される)が、自己の探究に通じるというわけだ。
他者との関係において、社会の中に置いて、どんな存在で在れるか。これが、自己を持ち、認識することになるわけだ。


余談であるが、あるいはデュナミスあるとかそういったものは、自然と他者によって彫りだされるものなのかもしれない。
威風堂々たるアポロ像が彫りだされるか、畏敬の風神雷神が彫りだされるか。
歪な細工か、あるいは彫りだすうちに砕かれ、形とならず朽ちてしまうか。

年月というものもあるかもしれない。
彫るという作業が、たったの一瞬で終わり、粉々となってしまうのか。
10年。50年という歳月をかけて、デリケートに彫りだされた名作か。

しかし、南直哉の話により浮き出たのは、やはりその半面の後天的な、経験的な側面だろうか。
自己の主体的なチカラの働きも無ではあるまい。

と考えると、あるいは自己の主体的な力のが、このステージまで引き上げるのだろうか。
すなわち自己を放棄することにより、間主観的に自己を要請するステージまで。
このステージに上るまでが、自己の主体的な力の努力なのかもしれない。